【3・11 東日本大震災福島原発事故特集】

小野寺信一弁護士との対談の全文/1

【杉井厳一】
 今日(2011年6月2日)は小野寺信一先生を仙台からお招きしています。この約束をしたのは市民オンブズマンの活動について少し教えていただこうということだったのですが、今回の震災で地震、津波とか原発を受けて現地で活動をされているということで、我々としても実情をきちんと知ってどういうふうに考えていくのか、いろいろな支援活動は始まっていますけれども、一番生で感じておられる先生からいろいろ教えていただくことが一番よろしいのかと思っています。そういう意味で小野寺先生をお招きしました。ご存じのように、小野寺先生は27期で36年くらいやられています。先生は、市民的ないろいろな活動とやっておいでになって、市民オンブズマンの活動は全国的に有名ですが、薬害のオンブズパーソンの活動もしています。今日のお話を大変楽しみにしております。

【小野寺】
 仙台から参りました小野寺です。どうぞよろしくお願いします。

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-地震が起きたときは-

 尾久さん(事務局)、お世話になっております。こんな形で再会できるとは思っていませんでした。

 小野寺信一さん先に地震とか津波のことを20~30分お話をして、それから原発の話に入っていきたいと思うのですが、3月11日の地震のとき、私は仙台弁護士会の4階におりました。3時から第二東京弁護士会の児玉先生をお呼びして、医療ADRの講演会を開く予定で、病院の関係者を含め150人くらいを予定し、まさにスタートする直前だったのです。激しい揺れが始まって、ともかく長いんですよね。もう終わったかなと思うとまた激しくということで、後で聞いたら東京も相当揺れたらしいですよね。私の友達が東京に出張していて、すっかり関東大震災だと思って直後に奥さんに電話を入れて「俺は大丈夫だ」と言ったら、奥さんに「何言ってるのよ。こっちだよ」と言われて、ああ、そうかと思ったと言っていましたけれども、東京も揺れたのですけれども、仙台の揺れというのは相当ひどかったですね。それでもビルが倒れたとか崩れたということはなくて、私の事務所も本が全部外に出る程度で、けが人もなかったので、かつて経験した宮城沖地震以下かなと思いました。

 しかし、すぐに停電になってしまってテレビを見ることもできないし、外からの情報というのはラジオだけだったんですね。その夜、全く暖房のないところで布団に入ってラジオを聞いていたら、荒浜で200から300の死体が見つかったという話が聞こえてきて、これは一体どういうことが起きたんだろう、もしかしたらとんでもないことが起きたんじゃないかと、だんだん不安になってきたんですね。翌日になったら女川町と連絡が取れないとか、南三陸町は壊滅だとか、石巻はほとんどないとかいう話がどんどん入ってきて、これはとんでもないことが起きたんだなと。それから、気仙沼が火の海だ、大島という私の住んでいるところにも火が移ったらしいというのが聞こえてきました。

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-気仙沼市大島の状況は-

 レジュメの後ろのほうに「祖父の遺言」というのを書いたところなんですけれども、一番後ろに新聞記事が出ています。資料5です。私の生まれたところは、この大島という島なんです。気仙沼湾に浮かぶ島で南北8キロ、周囲が22キロ、人口が3,000くらいの島です。私の実家は、この矢印のところだったんですね。ここには80を過ぎた両親が2人で住んでいたのですが、目の前が海です。次の写真の資料6が私の実家なんです。家の形は残ったのですが1階は完全に水が入ってしまったんです。下が裏から見たところで、松の木の下に見るのが堤防なんです。堤防に出ると(資料5)ナンバー4のような海が見える。ですから堤防と家というのは地続きになっているんです。(資料6)ナンバー3は家の中の様子なんです。こんな状況ですが、津波は大島を三分断する寸前だったようです。

 資料5の地図で見ていただくとおわかりですけれども、田中浜から上がった津波と浦の浜港から上がった津波が中央でぶつかっております。小田ノ浜から上がった津波と浅根漁港からの津波が、もう少しでぶつかる直前だったということなんです。

 この資料5の上の写真は、浦の浜港のフェリーが桟橋と一緒に押し上げられて、陸のほうのリフトの入り口のところに鎮座しているということで、船と船の間に見えるのは高さが4メートルぐらいのコンクリートの桟橋なんですね。ここに船がつないであったので、このコンクリートの桟橋もろとも持っていってしまって今ここにあるという状態です。私も何度か大島に行って、その津波の高さを見たのですが、大体15メーターから20メーター近い津波で、こんなところまで来たのかというびっくりするような高さでした。島の3分断というのは、実は私たちは小さいときから聞いていました。大島が大津波で3つに割れたことがあると。私は、てっきり三陸の大津波のときにそうだったんだろうと思っていたのですが、この記事によれば三陸の大津波のときでも島は3つに分断されなかったと言っていますので、私たちが聞いていた伝説というのは、その前の津波だったんだろうなというふうに今になって思います。

 私の両親は、地震のときは(資料6)ナンバー4の堤防のところに出て堤防にしがみついていたのですが、上のほうに家がある弟の嫁さんが車で降りてきてくれて、足の悪い父親を連れて弟の家まで行ってくれた。母親は足が丈夫なので、裏山から弟の家に上がってて、津波が来るときには2人とも上のほうからそれを見ていたようです。

 (資料6)ナンバー4の写真のコンクリートの桟橋があるのですが、桟橋の向こうがちょっとした半島がありますよね。白い家が見えるのですが、ここを乗り越えてきたと言っていましたね。ここを乗り越えてきて、実はここの真ん中あたりが、完全に家とか林が取れてしまって、弟の家から見ると、今まで見えなかった向こう側の海が見えるようになったんです。それぐらいの高さで迫ってきたということで、私の家がどうして残ったのか、むしろ不思議くらいなのです。おそらく、この屋根瓦が重くて何とか重量で持ったのではないかと思います。

 そんなことで両親の安否もわからない、それから私の弟が気仙沼の市役所に行っているのですが、その日の午前中に今日はこれから議会だというふうに電話でやりとりしたものですから、弟は議会棟にいれば大丈夫だろうと思ったのですが、弟の子供が海岸から1キロくらいの会社に勤めているのですが、その安否が不明で、助かっているというのがわかったのは14日です。屋根の上に逃れ3日目に自衛隊のヘリコプターに救出されたということがわかりました。近いところでは亡くなった人はいなかったのですが、ちょっと離れたところだと私の母の従兄弟が孫と一緒に流されて行方不明とか、私の従兄弟の義理の母が行方不明とか、それから私の依頼者とか顧問会社とか、そういうところはいっぱい犠牲者が出ております。

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-祖父の遺言-

 最後の「祖父の遺言」のところから先にいきますが、実は私の母の生家というのは先ほどの地図で言いますと、私の実家のちょうど気仙沼湾を間に挟んだ向こう岸なんです。

 3キロくらい離れていると思います。母の実家には母の弟が夫婦で住んでいたのですが、津波だということで車で逃げたので、預金通帳とか位牌などを置いたままでした。津波の後、実は浦の浜港で私の祖父の位牌が見つかって、たまたま祖父を知っている人がそれを見つけてくれて、3月21日のお彼岸の日に私の母のところに、届けてもらったのです。これは、そのとき撮った写真なんです。

 (資料6)ナンバー5の写真に写っているのは私なんです。これは私の隣の部落、ここはもう壊滅的にやられて家が全くなくなったところなんですが、そこを歩いている姿なんですが、ちょうど母の実家というのは、この写真の向こう岸にあったんです。ここもほとんど壊滅的、部落が全くなくなったところなんですが、そこから流された位牌がどういう経路かわかりませんが、気仙沼湾をぐるぐる回って大島にたどり着いて、そしてお彼岸の日に私の母の手元に届けられたという、非常に稀な偶然があったんですね。それだけじゃなくて、流された母の一番古いアルバムを弟の嫁がそれを拾ってきて、アルバムを開いていたら、祖父の随筆が濡れた状態で出てきました。

 それが資料7で、昭和50(1975)年に三陸新報という地元の新聞に書いたもので、その題が何と「津波」ということだったんです。そういう点でもびっくりしました。私の祖父はこういうふうに書いているんです。ちょっと字が小さくて申しわけないのですが、「海は我々の生活の場で人類を生かしてくれているが、反面、遠慮会釈なく犠牲を強いている。また従来、襲来した以上の大きな規模の津波は永久に襲来しないと断定する根拠がない」。常に備えあれば憂いなしということを書いていて、何かあの世から執念で蘇って私たちに忠告しに出てきたのではないかと思うようなこともございました。

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-仙台を脱出-

 そんなことで、津波が大変な被害をもたらしたということがだんだんわかってきたんですが、そのうち、実は原発が重大な局面に入ってきました。後で申し上げますが私は昭和50(1975)年に弁護士になったときから福島原発訴訟をやっていたものですから、今問題になっている事態がどれほど重大なことかということはわかっていましたので、12日、震災が始まった次の日、食糧がなくなったものですから修習生が自宅に泊まりにきていたのですが、修習生を連れてその夜に仙台からいったん避難をしました。もしあれが水蒸気爆発みたいなもので格納容器が割れたら、これは仙台だって危ないというふうに判断をして、鳴子の駅の前で一晩車中泊をしたんですね。完全に電気が消えていますので、外灯もないわけです。真っ暗な道路を車で行ったのですが、電気がついているのは消防署とか病院、警察署くらいのもので、それだけに鳴子の駅の前で見た星空が、こんなに星がきれいだったのかと思いました。水素爆発で建屋が壊れただけだしということがわかったので、次の日にいったんは戻りました。

 その後、14日、15日に4号機、5号機の冷却が困難ということになって、これはやっぱりだめだろうということで、家族を説得して15日の夜9時ごろ車で避難を開始し、山形のビジネスホテルに一泊して、次の日どうするかと。飛行機をいろいろ調べたら、山形空港から羽田に出て夜の8時に羽田から那覇に行くという便が空いていたんです。沖縄に行くのかなというふうに思ったのですが、一方、自分の親族の安否が不明というところで私だけ逃げていいのかという気持ちもあったし、それから14日に仙台市内に関西の消防車とか救急車が、ものすごい数が入ってきたんです。本当にもうパレードのように、もういつまで続くんだろうと思うくらいの数がダーッと入ってきて、彼らは12日か13日に関西を発っていたはずなんです。だからそういうことを考えると逃げるというわけにもいかんだろうということで、結論としてはともかく秋田に行こうと。風向きと距離からして秋田なら大丈夫だろうというので、車で鶴岡まで行って、鶴岡の駅に車を乗り捨てまして、羽越線で秋田に出ました。今回の震災で一番被害のなかったのが秋田です。ですから、秋田のホテルでは企業間の懇談会とか何とか学校の終了式なんかやっているわけですよね。こんな日常をやっているんだという感じだったのですが、ともかくホテルに落ちついて、もし原発が収まるのだったら私一人で大島に入ろう、気仙沼に行こうということだったんです。

 仙台は、実は12日からスーパーとかコンビニは食糧がほとんどない状態だったんですね。仙台でそういう状態だったのですが、秋田はまだそこまではひどくなかったんです。それでもコンビニに行くと電池なんかは全くありませんでした。それなら秋田で必要なものを買えるだけ買って気仙沼に行ったほうがいいだろうというふうに思って、タクシーの運転手に相談したら、LPガスはいっぱいあるので、タクシーであれば行って帰ってこれるというので、17日の1日をかけて粉ミルクとかいろいろなものを買い込んで、18日の朝に秋田をスタートして気仙沼に入ったという状態です。家族には、もし何か原発があったら、あなた方の判断で津軽海峡を渡るもよしということで別れていったのですけれども、気仙沼に行って私の弟が気仙沼市役所に勤めているので、弟の車で支援物資を海岸まで運び船に乗せました。

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-気仙沼の状況-

 その船というのは、先ほど写真で見せたフェリーが全滅だったので、たった1艘、小さな船が生き残ったのです。臨時船といって定期の船がなくなった後、遅く帰ってくる人を乗せるための小さな船ですが、それか津波に向かっていってかろうじて助かった唯一の大島の足として動いていたんですね。それに乗せてもらって大島に辿り着きました。そのときの気仙沼の状況というのは本当にすごかったですね。気仙沼市役所のところまでは水が入らなかったので、今まで見慣れた気仙沼の風景なんです。

 市役所を曲がると、もうそこはまさしく、おそらく戦争中空爆された後はこうだったんだろうなという情景でした。世界が一変するという感じでした。家が全部崩れてがれきがどこまでも続き、やたら人が多いんです。普段は車はたくさん通っているのですけれども、歩いている人がなかなかいなかったのですが、歩いている人がいっぱいいて、リュックサックを背負って帽子をかぶってマスクをして、おそらく戦後間もないころの買い出しというのは、こういった風景だったんだろうと思うような風景です。魚市場のあたりは、加工場なんかがいっぱいあるのですが、これはもう壊滅です。建物の支柱は残っているのですけれども、中が全部素通しになっていて、鉄骨だけがむき出しになっている。木造の家屋はもう全部流されてないという状態ですね。それから、大きな油を入れているタンク、これがもう横倒しになったりひっくり返ったりして、その油が気仙沼湾に広がって火が付いて、大島にも飛び火して、亀山という山がかなり焼けたんですね。うちの両親は弟の家に避難したのですが、次の日は火事が迫ってくるというので、大島小学校の避難をさせられたようです。そういう津波プラス火事という状態で、本当に大変だったんです。

 そういうことで、私は18日に秋田から持てるだけの物を持って大島に入りました。大島の対策本部に行って何が今足りないんだと聞いたら、米もないし、一番必要なものはアレルギー性の粉ミルクだというんですね。普通の粉ミルクが飲めない人がいるということで、すぐ秋田の家族に電話を入れて、もう一回買い出しをしてくれというので、アレルギー性の粉ミルクも含めて必要な物を指示して、20日にもう一回タクシーで気仙沼に支援物資を送ってもらいました。

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-支援物資のヒット-

 今回、僕が持っていった支援物資の中で一番ヒットだったのは、小さなLEDのライトですね。ピッと押すと電気がついて、日中お日様に当てておくと光るというやつです。つまり全部停電で、避難所も真っ暗なので、お年寄りがトイレに行くときの足元を照らすものがないんですね。うちにも懐中電灯はあったのですが、せいぜい1個だし、それから懐中電灯も使ってみてわかったのですが、起きたときにどこに置いたかというのを忘れてしまうんですよね。私がそうなので、おやじ、おふくろなんかになると余計そうなんです。ですから、私が持っていったライトを皆さんヒモをつけて、首にぶら下げて、トイレに行くときに付ける。これは秋田のホーマックみたいなところで見つけて、もうあるだけ全部買い占めて持っていったのですが、これが大変好評でした。「これで小野寺さん、あなたは市議会議員に当選する」と言われまして、そういう道もあるかなみたいな(笑)。

 そんなことで20日に家族は秋田から仙台に戻り、私は22日に気仙沼から仙台に戻って、だんだん普通の生活をするようになりました。当初は、扱っている事件が遠のいてしまったという感じですね。ですから、世の中には金持ちもいるし貧乏人もいるし、心がけのいい人もいるし悪い人もいっぱいいあるんですけれども、日常というのは僕はその差を競っている場なのかなというふうに思うんです。しかし、それが根こそぎひっくり返ってしまうと、その差なんていうのはもうどうでもいいと。裁判も、裁判所から当事者の安否確認をしてくれと来るわけです。私の依頼者は2人亡くなりました。結局、安否が不明ということになってしまうと、裁判で争っていることなんていうのは、何だそんなものはという、そんな感じすらします。結局、事件のことが全然頭の中に入ってこないんですね。ですから、普通に事件ができるようになるまで2カ月ぐらいかかりました。私のところは、さっき申し上げましたように近いところでは誰も犠牲者がなくて、家は流されましたけれども、被害としては少ないほうでした。ですから、近親者を亡くされた方などが普通の生活に戻るというのは、よほど長い時間がかかるんだろうなというふうに思いましたね。

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-福島第二原発訴訟とのかかわり-

 さて、それでは少し原発の話に入ろうと思います。私は、実はさっき申し上げましたように27期で昭和48(1973)年に修習生になって50年に弁護士になったのですが、妻が八王子出身で立川高校なものですから、八王子合同事務所にほぼ内定していたんですね。うちの女房は大変喜んで、自分の実家の2階が空いているから、そこから通えばいいじゃないかとか、計画を立てていたようなんですが、突然福島の大学先生という先生が私の住んでいたアパートに訪ねてきまして、それで福島に行くことになってしまったんです。昭和50(1973)年4月に行ったのですが、その年の1月に福島第二原発訴訟というものが起こされておりました。弁護士になったばかりの私と仙台の山田弁護士と埼玉の佐々木弁護士の3人がペーペーとして入りました。上には非常に偉い先生方もいっぱいいたのですが、最高裁に行ったときには我々3人が残ったということで、最高裁の上告理由書は我々27期が書いたということであります。

 この裁判の特徴は、やっている最中にスリーマイル島事故とチェルノブイリ事故があったことです。一審の提訴後4年ぐらいでスリーマイル島事故が起きました。それから、控訴審の途中でチェルノブイリがありました。当然のことながら、我々の言っているとおりのことが起きたじゃないかということで、裁判で主張したわけであります。一審の最終弁論が昭和58(1983)年12月7日にあったのですが、そこで我々弁護団は、そこに書いてありますように4点を主張しました。特に1、2、3については力を込めて弁論をいたしました。地震や水素爆発についても主張はしておったのですが、メインのテーマではありませんでした。おそらく当時は地震についての知見が現在ほど広く行き渡っていなかったせいなんだろうというふうに思います。触れてはいましたけれども、主たる論点ではございませんでした。1、2、3を強調して最終弁論を終えたということであります。

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-事故は盲点で発生する-

 1点は、事故は盲点で発生する。事故原因の多くは起きて初めて認識されるということです。ですから今回、想定外かどうかということを争われておりますけれども、想定外ということは起きないということではないわけですよね。想定した経過では起きなかったということに過ぎない。ですから、事故は盲点で発生するというのは今回も当てはまっていると思います。あってはならないはずの冷却剤喪失事故は高い確率で発生しており、今後も発生するというふうに予言しましたし、いったん大事故が起きた場合、災害は極めて広範囲に及ぶということも今回、実証されたのではないかなと思います。

 スリーマイル島事故について少し話をしてみたいというふうに思うのですが、スリーマイル島事故というのは1979年、昭和54年3月28日にペンシルバニア州で起きた事故です。今問題になっている福島の原発というのは沸騰水型といって、核分裂によってお湯を沸かしてその蒸気でタービンを回すという、非常にシンプルな形なんですが、このスリーマイル島の場合は加圧水型です。核分裂反応によって蒸気を沸かすところまでは一緒なんですが、その熱を熱交換機を通じてもう一回蒸気を沸かし直して、それでタービンを回すという二段構えになっています。

 3月28日にどういうことが起きたのかというと、加圧水型は今申し上げましたように二段構えになっていますので一次系、二次系とあるのですが、一次系の熱を蒸気発生器で二次系のほうにバトンタッチして、そして二次系の熱でタービンを回すということなんですが、この二次系を回しているポンプが止まってしまったんです。そのときには補助ポンプというものが駆動してすぐ二次系を回さなければいけないことになっているのですが、二次系のポンプの吸水管のバルブがしまっていたので補助ポンプが動かない。補助ポンプが動かないとなると主ポンプも動いてないわけですから、二次系の水の循環は止まってしまったわけです。そうすると一次系の熱を除熱することができなくなり、あっという間に一次系の温度と圧力が高まっていく。もちろん、そうなったときのために自動的に制御棒が差し込まれて核分裂反応は終わったのですけれども、ご承知のとおり終わっても熱は出続けるわけです。二次系が動かなくなった、一次系の圧力が高まったときに通常であれば圧力逃し弁から圧力を逃すことになっているんです。今回も一次系の水が蒸気と一緒に出たのですが、実は圧力が下がったときにはバルブがしまって、それ以上逃れないようにしなければならなかったのですが、逃し弁の故障で開いたままになっていたために、一次系の水がどんどん出てしまった。そうすると、ECCSという非常用炉心冷却装置が稼動して、外から水を補給することになるのですが、水が多すぎると圧力の調整がうまくいかないだろうということを心配して、運転員が水の注入を絞ってしまった。結局、水がどんどんなくなる一方ですので、今回の原発と同じように炉心がむき出しになって燃料棒が溶け、いわゆるメルトダウンが起きたという経過だったんです。

 福島の原発は、先ほど申し上げましたように二段構えではなくて、沸騰した蒸気で直接タービンを回すということになっているわけですが、圧力容器の水というのは1人3役くらいを果たすわけですね。1つは炉心の温度を下げるという役割と、みずから蒸気になってタービンを回すという役割と、それから中性子のスピードをほどよく減速して、間断なく核分裂反応が起きるような役割、減速材というのはそういう意味なんですが、真水がそういう役割を果たしているということなんです。

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-事故は同時多発におき、複雑に発展拡大する-

 さて、裁判が起きて4年後にこのスリーマイル島事故が発生しまして、私たちは大変衝撃を受けて、アメリカ大統領の調査報告書を入手して、日本の科学者のディスカッションなども参考にして、早速準備書面を書いていきました。レジュメの3番目に「教訓」ということが書いてあるのですが、このことと今回の福島原発と少し関連づけてお話をしてみたいと思います。スリーマイル島事故の教訓の第一は、事故は同時多発的に起き、複雑に発展拡大するということです。日本の原発の安全評価というのは、代表的な事故を想定して、それに関連する安全系の機器が1つ壊れた場合、それでも大丈夫なのか、それでも安全性が保証されるのかという角度で安全評価をしているのです。

 単一故障指針というのですけれども、しかしスリーマイル島の場合は極めて複雑な経過で発展し、しかも同時に発生してしまうという、1足す1は2じゃないんです。1足す1は3とか4になってしまう。しかも、今まで誰も考えなかったようなところから事故が起きるということがわかったわけです。先ほど私は、1番の発端は二次系の主ポンプが動かなくなったことだというふうに申し上げたのですが、これだってもとは何かと言えば復水浄化器というところの配管が詰まって、その配管の詰まりを空気の力によってかき回して、その配管の汚れを取ろうとしたときのミスによって主ポンプが動かなくなったということで、もともとのきっかけ、源流の一滴は実に些細なことなんです。

 ですから、柳田邦男さんは事故の発火点は辺縁にある、周囲にあるということを言っておりますけれども、本当にそんなことからどんどんドミノ倒しのように発展していく。日本の場合は、大きな配管がドーンと切れた場合に、それでも大丈夫かという角度で評価していったのです。福島原発の場合も、外部電源が全部喪失して、非常用ディーゼル発電機が機能停止という2つのことが同時に起きてしまった。控訴審の検証で第二原発ですけれども、私たちも中に入って発電機を見ました。この部屋の2倍ぐらい大きいディーゼルエンジンで、それが何基かあって、もし電源が喪失したときには、すかさずこれが起動する。しかも複数あるので、どれかが必ず機能するので、心配する必要がないという建前になっていたのですが、これが第一原発の場合にはだめだった。

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-人為ミス-

 それから2番目は人為ミスです。日本の安全評価の場合には、普通の能力を持った運転員が積極的なミスをして、そして事故を拡大するということは念頭にないんです。第一原発の安全審査にかかわった東大の都甲教授、第二原発の裁判のときに国側の証人として出てきた切り札の人なんですが、彼はこんな例えを言っているのです。飛行機に例えれば、万一のときに気球を2つぐらい備え、それが働かないときの用心にパラシュートを2つぐらい備え、さらに住民の住んでいるところの上空に網を張り巡らせているようなものだと。だから、操縦士にミスがあってもどうってことはないと。こういった考え方だったんですね。

 しかし、スリーマイル島の場合は、先ほど私は二次系の補助ポンプのバルブが締まっていた、だから二次系が動かなくなったということを申し上げましたけれども、運転員はそのバルブが締まっていたということに気がつきませんでした。それから、加圧器の逃し弁が開きっ放しになって、一次冷却水がどんどん外に出ているということも運転員は気がつきませんでした。それから、本当はもう注入し続けなければいけないECCSの水を、圧力のコントロールができなくなるのではないかと心配して絞ってしまったというミス、こういった人為ミスがスリーマイル島の場合はあったんです。

 柳田邦男さんの『恐怖の2時間』という本を読むと、最初の30秒でアラームが85個、警報ランプが137個、同時に鳴ったというんです。今回もおそらく外部電源が消えてしまったので、真っ暗闇で中央制御室に行って懐中電灯か何かでいろいろ見てやっているわけですからね。それが1つの炉だけならともなく、複数の炉で同時に発生しているわけで、そこで冷静な判断を要求するというのは無理だろうと思うんです。

 スリーマイル島の場合は、当日の当直員が4人で、海軍出身で原子力潜水艦の経験者なんです。年齢は20代後半から35歳、ハイスクール出身で大学を出てないということなんですが、福島の原発も先日の新聞によると第一原発で6,778人いたのだけれども、東電の職員は1,087人に過ぎないと。5,691人は地元協力企業の作業員。とびきり原発に詳しい専門家が常時そこにいるというわけでも何でもないんですね。その人たちは、ルーチンのことはこなせると思うのですが、こんなふうに外部電源が喪失し、ディーゼルエンジンも動かない、さあそれで海水を注入するかしないかとか、もう既に放射能が出ているかもしれないなんていうときに、どういう判断を下すのか。ミスを犯さないほうがおかしいんじゃないかと思うのですが、これが日本の安全審査の中にはほとんど反映されていません。

 今回も報道されているところでは、幾つかもう既に挙げられています。津波が来るまでに原子炉を満水にしておくべきをしなかったとか、11日の夜の時点で圧力容器内の蒸気を出す、弁として圧力を下げて外から水が入れるような状態にしておくべきなのにしなかった。12日にやったために、炉の圧力がもう上がり過ぎて、外からの注入ができなくなってしまったということも指摘されています。しかし、5月19日の新聞だとベントができなかったというのはミスではなくて、設備自体が機能しなかった可能性があるということだと、これはもっと重大な問題になるんですよね。それから、1号機で緊急炉心冷却用の非常用復水器からの水の注入を、どうやら手動でストップした可能性もあると。そんなことで、まだこれから明らかになるんでしょうけれども、おそらくは慌ててやってはいけないことをやってしまったとか、やるべきことをしなかったということがこれからたくさん出てくるんだろうというふうに思っております。

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-マインドセット-

 3番目は、マインドセットということです。アメリカの調査報告書、これはケメニー報告というのですけれども、その中に「我々は一つの言葉が繰り返し使用されたのを覚えている。運転員がミスを起こすことはないというマインドセットである」という部分が出てくる。このマインドセットというのは、僕は原発訴訟を通じて教わった言葉なんですけれども、「思い込み」という意味です。福島原発の場合も大津波なんか来るはずがない、来てもせいぜい5.7メートルぐらいだろうというふうな思い込み、外部電源が喪失するはずはない、そのときは必ず非常用ディーゼルエンジンが動くんだと、これも思い込みですよね。そのために第二原発では非常用ディーゼルエンジンは陸側の原子炉建屋の中にあったのですけれども、第一原発は海側のタービン建屋に置いたままにしてしまった。それから、非常用ディーゼルエンジンも海の水によって冷却して動かすわけですが、組み上げポンプが第一原発の場合には建屋で保護されず、ほぼむき出しの状態になっていた。危機感がないものですから、放ったらかしの状態になったということです。

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-多重防護は信頼できない-

 4番目は、多重防護が信頼できないということがスリーマイル島事故で明らかになりました。飛行機の例を挙げましたけれども、災害発生ということはないんだ、その前の段階で防護するんだという建前ですので、結局、災害発生というのはないんであれば、防災などやる必要もないということになってしまいますよね。今日のレジュメの資料1をちょっと見てくださいますか。結局、こういう自体が起きるというふうに具体的に考えて対応をとってなかったわけです。左側の段の2段目に南相馬市、今は計画的避難区域です。原発事故を想定した具体的な防災計画はなかった、防災訓練は地震と水害だけだったということを言っています。それから、次の段で避難の基準となる長期間の被爆放射線量、学校利用の可否を判断する放射線量、避難住民の一時帰宅での許容範囲や時間、農作物の出荷や作付けなど、広範囲で基準を次々に求められ、場当たり的に打ち出すことになった。つまり起きないということですから、計画を立てる必要もないということになってしまうのです。

 今回の福島原発の場合も非常用のディーゼルエンジンがすべて使えない場合はどうなんだとか、炉心の水がなくなって燃料棒がむき出しになった場合、どう対応するのかとか、水素爆発の恐れが出たときにどうするのかということは全然考えてなかったわけですので、極めて場当たり的に、しかも時間の勝負の中で同時並行にきつい作業を進めていかなければいけないものですから、ミスも出てくるということになるわけです。

 スリーマイル島というのは、今申し上げましたような教訓を含んでいたわけです。私たちは、それを裁判の中で主張しましたけれども、国は運転員のミスが事故原因なんだ、ああいうミスは日本では起きようがないというふうに矮小化しました。だから、私たちはその態度を見て、先ほど申し上げましたように事故は盲点で発展する、国がそういう態度であればあってはならないはずの冷却材喪失事故は今後も発生すると。その場合、災害は極めて広範囲に及ぶということを申し上げたということになるわけです。

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-安全性は実証されているか-

 私たちが裁判の中で最も力を入れて主張したのは、安全性は実証されているのかという点です。例えて言えば、こういうことだと思うのです。もし10年に一遍ぐらい世界中を飛んでいる飛行機が、何の原因か知らないけれども一斉に落ちてしまうという現象がもしあるとすれば、それが10年か15年に一遍でもあったとしても、はたして飛行機というのは普通の運送手段として、あるいは産業としてなり立っただろうかというふうに思うんです。飛行機事故、自動車事故、船舶事故、列車事故は今でも続いています。にもかかわらず我々が列車や飛行機を認めているのは、結局のところ最悪の場合の被害規模というのは大体限定されて、発生頻度も今年は去年に比べて3倍になったとかいうことはない。大体頻度が一定し、御巣鷹山のような事故もありますけれども、飛行機に乗っている人たちと、あるいは墜落したところの人が亡くなるという程度です。1つの都市が全滅するとか、1つの国家が滅亡するとか、そういうことは飛行機事故ではあり得ない。そうすると、我々はその飛行機に乗るのか乗らないのか、車で行くのか行かないのかというリスク判断ができるわけです。

 しかし、原発に関しては、最悪の事故の規模というものを人類は誰も知らないわけなんです。もし1つの炉で致命的な事故が起きて、放射能があたりにまき散らされたとした場合、作業員が作業できなくなりますよね。そうすると、これは第二原発も一緒に作業ができなくなる。つまり、今のような冷却をしていられなくなってしまうわけです。そうすると、第一原発と第二原発で10個の炉があって、この10個の炉が仮に冷却困難ということになった場合、一体どういう事態が発生するのか。日本が壊滅するだけじゃなくて放射能は風に乗ってアメリカにも行くでしょうし、私は本当に逃げるときに人類の滅亡のカウントダウンではないか、これは秋田に逃げようが北海道に逃げようが、どっちも同じではないか、自分一人が死ぬならともかく、日本の国が滅亡するのを見るということになるのではないかという、そういった危機感すら持ちました。これから第一原発がどうなるかわかりませんけれども、汚染水がずっと垂れ流しのままであれば、空気を汚すかわりに海を汚して、日本の太平洋はもうだめになります。4月4日に鶴岡に車を取りに行ったんですけれども、当時もまだやっぱりガソリンがなくて、鶴岡に一緒に原発訴訟をやった脇山弁護士のところに行ったらガソリンを満タンに入れてくれたのですが、帰りに先生から太平洋の魚はもう食えないだろうから日本海の魚を持っていってくれというので、魚をどっさりもらい、美味しい日本酒ももらって帰ったのですが、冗談ではなくなってきたんです。かなり広範囲に太平洋が汚染されている可能性があって、そういう点でも致命的なことになりつつあるわけなんです。

 私たちは最終弁論で、ここに書いたように「軽水炉発電技術は極めて過酷な条件と多くの未知要因を持った未成熟な技術である」と言いました。軽水というのは普通の水なんですね。重水ではないという意味なんです。「指針を手直しないし新設ということは未成熟な証拠だと。壮大な実験をしていることになる」ということを最終弁論で言いました。この「指針の手直しないし新設」というのは、地震の知見が明らかになるに従ってたびたび行われてくることになりました。206年にも新しい耐震指針ができました。しかし、3月11日の東日本大震災では福島第一原発にしろ、東海第二にしろ、この指針の想定を上回った揺れが認められましたし、女川では本震だけではなくて4月7日の余震でも想定を上回る揺れがあったわけです。こういったときに、本当に多重防護の機能が発揮できるのかということです。むしろ素人の直感のほうが本質を言い当てているのではないかということで、資料2に、これは福島第二原発裁判が起こる数年前の公聴会で60人の人が証言しているのですが、その中で大和田さんという人の証言、赤線のところだけ読みます。「東電の宣伝パンフレットには原子炉には何重にも安全装置が施されているのが強調されています。しかし、よく言われるように大事なことは安全装置があるかないかではなくて、そのような安全装置が事故のような劣悪な条件のもとでも本当に性能を発揮するという保証がどのくらいあるのかということです」。まさに本質を突いているわけですね。

 次のページを見てください。赤のところですが、「事故時のような悪い条件でも必要な機器が作動するという保証は何でしょうか。また、そのような技術的に起こると考える重大事故が発生したとき、農作物にどのような被害が出るのか。東電が提出している申請書添付書類には解析されていない。それを求める。そのような影響の評価もないままでは判断のしようがない。重大な事故のとき、どの範囲のどの程度の汚染が生じ、農作物はどのくらいの期間にわたって社会的な制約を受けるのか。具体的な分析結果を示してもらいたい」と言っていますね。その次、「事故解析は多くの仮定、想定で行われているように考えられるが、一般事故というものは予想できないような原因や経過によって起こることが少なくない。事故解析で計算されている放射能の量は、現実に起こった場合のいかなる場合にも、その値を上回ることがないということがどのように確認できるのか。これは現実に起こってみなければわからないものであって」云々と書いてあるのですね。まさに、その本質を突いているわけなんですよね。

 さて、今後の見通しと取り組みのところに少し入っていきたいと思います。ここで少しオンブズマンの話をさせていただきたいと思うのですが、私は東電なり政府は、地震対策と津波対策に矮小化した対策をとって乗り切ろうとしているというふうに思っております。これだけ重大な事故が起きても、おそらくその教訓を正面から受け止めて国民的な議論をするということは避けようとするだろうと思います。原発依存型の経済成長と繁栄を求め続けるのか、そこから脱却するのかという国民的な議論が、おそらくされないまま安全神話が復活するだろうというふうに思っております。なぜならば、スリーマイル島のときがそうだったんですね。さっき申し上げましたように、運転員のミスだということで乗り切りましたし、チェルノブイリのときには炉が違うと。確かにチェルノブイリの場合には減速材が真水ではなくて黒鉛だったんです。それから格納容器というものはないんです。裁判のときにも国がそういうふうに主張して、裁判所も結局はそれを認めたわけです。今回は、地震は確かに見通しを誤ったと。しかし、これこれをやれば大丈夫だと、津波対策については防潮堤をつくれば大丈夫だとか、非常用のエンジンを高台に上げれば大丈夫だという形で絆創膏を貼って乗り切ろうとしているんだろうと思うんです。結局、それだけ安全神話というものが強固だということなんですね。

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