「あたらしい憲法のはなし」
といっても、令和の御世に令和らしい新しい憲法を!、ということではありません。
これは、文部省が、1947年5月3日に施行された日本国憲法の解説のために発行した新制中学校1年生用の社会科の教科書のタイトルです。この教科書では、日本国憲法の精神や中身を15の章に分けて易しく解説しています。
特に、新憲法に掲られた平和主義、戦争(戦力)放棄条項については、解説に入る前に、第2次大戦について「二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。」と断じ、「戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです」と読者の小学生に呼びかけています。
(【青空文庫】で読むことができます。別ウインドウで開きます。)
このほど岸田内閣が、今後十年程度の外交・安保政策の指針となる安保関連三文書(「国家安全保障戦略」「国家防衛戦略」「防衛力整備計画」)を閣議決定しました。
これは、相手国領内への「反撃能力(敵基地攻撃能力)」の保有を初めて盛り込むなど、「戦後の防衛政策の大きな転換点となるもの」です。
その「反撃能力」は「平和安全法制に際して示された武力の行使の三要件」を満たせば行使でき、集団的自衛権の行使の際にも発動されうるものです。簡単に言うと、「米国が始めた戦争で、日本は武力攻撃を受けていないのに、自衛隊が米軍を支援するため、相手国領内に敵基地攻撃をすることができる」ということです。
戦後、歴代内閣は、憲法9条に基づいて、戦争放棄と戦力不保持を貫き、専守防衛、つまり「攻撃を受けたときに初めて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめる」を堅持してきました。上記の反撃能力を発揮して敵基地を攻撃することが専守防衛に該当するのか?そりゃ、先に相手の攻撃方法を潰してしまえば攻撃されることはないのですから、それも防御だ、という考えもありますが、防衛という単語の解釈としては甚だ疑問です(岸田内閣は「専守防衛の考えを変更するものではない」と言っていますが・・・)。
先ほどの「あたらしい憲法のはなし」の戦争の放棄では以下のように書かれています(素晴らしい内容ですので全文引用します。「戰爭」は「戦争」に直しています)
「そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。」
武器を持つことも、戦争や武力行使によって他国との争いを解決したり、他国を脅すこともしてはいけない、と、世界中の国が仲良くすることができれば、日本は栄えていけると、当時の教科書は明確に伝えているのです。
令和もまもなく5年目に入りますが、この教科書が伝える精神は何十年経っても色あせるものではなく、むしろ今の時代だからこそ大事にすべきものです。
現内閣を構成する方々ももちろん私たちも、新年を迎えるに当たりもういちど「あたらしい憲法のはなし」を読んで、憲法の掲げる平和主義について考えても良いかもしれません。