悲しみよこんにちは
大好きな母が亡くなりました。
仕事の前に、朝一緒にコーヒーを飲みながら他愛のない話をして、いってらっしゃいと送り出してくれる母が、目の前にもういないのです。
ふと、昔何かで読んだ仏教の逸話を思い出しました。
『幼い子を亡くしたばかりの母親が、遺体を抱えたまま、「子供に薬を下さい、薬を下さい」と、狂乱したように町中を歩き回っていました。母親は釈迦のもとに行き薬を求めました。「よろしい、ケシの粒を持ってきなさい。ただしいまだかつて死人を出したことのない家からね。」これを聞いた母親は釈迦がケシの粒から子供を生き返らせる薬を作ってくれると思ったのでしょうか、あちこち探し回ったけれど、見つかりません。「うちも去年親を亡くしたんですよ」とか、「私もついこの間子供を亡くしたばかりで、お気持ちはよくわかります」などという話を聞きながら母親は次第に心の平静さを取り戻し、自分の命と思っていた子供の死を受け入れていった』
と言う話です。
大切な人をなくす悲しみは、生きていく上で誰しもが経験することだとは私も分かっています。ケシの粒を探してもどうしようもないことも分かっています。
ではどうやってこの悲しみとつきあっていくか。これが私の課題となりました。
時折、私は母とのLINEのやりとりを、大切な本を読むように開きます。
母との時間がよみがえるのです。
『このカップで一緒にコーヒー飲むのが楽しみね』
コロナ禍で会うのを控えていた時、私が母にコーヒーカップを贈ったときの、母からのLINEが目にとまりました。
『そうだ、これからも毎朝母と一緒にコーヒーを飲もう。』
それからは母の遺影の前に私のコーヒーを半分こして供え、乾杯をして一緒に飲むのが日課になりました。
『行ってきます。今日も見守っててね。』と話して出かけます。
また、こんな本にも出会いました。
「亡くなったあの人と話したい・・をかなえる本」日下由紀恵(永岡書店)です。
にわかには信じがたい題名ですが、その中に「天界とこの世はつながっていて、大切な人はいつもあなたのそばにいます。そして幸せになるためのメッセージを送り続けてくれているのです」とありました。どうやら、亡くなった人はなんとかしてそばにいることを知らせようと風を吹かせてみたり、急な雨を降らせたり、石をころがしてみたり、何かしらサインを送っているのだそうです。
思い出してみると、母からのサインではないかと思うことがいくつかありました。
納棺の後、葬儀屋さんを後にした私たちが車に乗り込んだとたん、雲一つない晴天なのに急に雨がパラパラと降り出したり、息子の野球の試合開始直前、急に突風が吹いて選手の上着の山から息子の上着だけが宙をまってクルクルしたり。
サイン探しを信じてみると、なんだか楽しくて、母からのメッセージかしら、と思うだけで日々があたたかいものになりました。
朝昼晩、ふと母を想います。
冬は、灯油の匂いと、こたつのあたたかさで母を想い、春になれば一緒に摘んだつくしが顔を出しているのを見て涙が流れます。
これからもたくさん母を想い、近くに感じようとサイン探しをして、決して乗り越えることは出来ない悲しみと、うまく付き合っていくのだと思います。
私の悲しみよこんにちは。